百貨店から広告代理店に転職したら地獄だったけど自分を見つけられた話【覚醒編】
「覚醒」という言葉は、現代こと少年漫画ではよく、
「ある出来事がトリガーとなって、秘められていた力が解放し強くなる」
といった意味で使われる。先にこの文章の結論を言う。
「覚醒」とは多くの人にとって「秘められていた力が顕れること」ではない。
「覚醒」とは「自分の価値を発揮できる条件がわかること」である。
■前回の話
百貨店から広告代理店に転職したら地獄だったけど自分を見つけられた話【覚醒編】
第3章 屈辱の社内ニート期間、そして決意
約2ヶ月間の社内ニート期間
ぼくのギブアップ宣言の数日後、ぼくの今後の処遇について、マネージャーから以下のような説明があった。
「事前に話した通り、お前を今までと同じポジションには置いておけない。これから言うポジションのどちらかに異動させようと考えている。一応希望を聞く。どっっちがいい?
A:育休から復帰するエース社員(先輩)のお手伝い
育休中だったエース社員(先輩)に復帰後にプランニング(企画)をやってもらおうという動きがあった。その先輩が復帰した後、資料を作成したり調べ物をしたりするサポート役。
B:自社サービスのLPにタグなどを埋め込むなんちゃってコーダー
自社サービスのLPに、効果測定をするためのGAタグを埋め込む係。(正直何をするのか今でも不明。)」
そこで僕は、Aの方を選んだ。
理由は、「育児勤務の人と一緒だとリモート勤務しやすそう⇒転職活動をしやすそう」だからだった。(ぼくはギブアップした時点で、もう転職しようと決めていた。ここでやり遂げられなかったら退職しようという覚悟で臨んでいた。)
そんな理由で選んだのだが、のちにこの決断がぼくにとって幸運な決断となる。
その後、希望通り営業サポートのチームに配属予定となり、内示も出た。
しかし、一緒にやる先輩の復帰日はまだ2ヶ月先。
ぼくは3月からの2ヶ月間、元の部署にいながら、仕事の引き継ぎや、新しい部署に移るための準備として新卒と同じ研修受けたり、営業同行をしたりして、時間を潰すこととなった。
正直引き継ぎもそれほど時間がかからないし、基本ぼくに新しい案件の仕事は振らないことになっていた。そのため、毎日昼過ぎにはタスクがすべて完了してしまい、有り余った時間を読書(一応業務に関連するもの)して時間を潰すということをしていた。
まさに「社内ニート」である。社会人になってこの期間ほど社内を歩きづらい期間はなかった。
転職を断念し決意する
社内ニートになり、転職活動を始めた。定時ピッタリで帰れていたし、
ぼくの勤怠管理をする人もいなかったため面接の時間を調整することは容易だった。
そのときの転職の軸は
- 仕事量が少ない
- 仕事の難易度が低い
- 年収400万円以上
- 今までの経験が少しは生かせるところ
これでしかなかった。相当に腑抜けた軸だと思われるだろうが、それほどまでにぼくの自己肯定感や自信感は低くなっていた。大学受験に全落ちした現役受験生の頃よりも落ちていたと思う。生きていけるなら仕事なんて何でもよかった。
そんな考えではあったが、転職活動を進める上で、どうしても解消できない問いがあった。
それは、「自分は社会に対してどんな価値を提供できるのか、またそれが可能になるのはどんな環境か」という問いである。
自己分析をしたところで、この問いに対する答えがわかることはなかった。
現代の資本主義社会では、人間は社会に対して何かしらの価値を提供しないと対価を得られず生きていくことができない。そして自分は現在、社会に対して価値を提供できておらず、また提供できることが可能になる環境もわかっていない。
そんな当たり前の真理と自分自身の危機的な状況に、ぼくは身ぐるみを剝がされてようやく気付いたのだ。
この問いがわからないまま転職してもまた同じ過ちを繰り返すことになるのではないか。そう考えた僕は、選考が進んでいる会社をすべて辞退し、恥を忍んで今の会社に残り、問いの答えになるもの少しでも掴んでから辞めるという決断をした。
第4章 模索期、どうやって食っていけるか
育休中だった先輩社員が復帰し、プランニングや資料作成で営業をサポートするチームとしてぼくは働き始めた。この時期は、思いのほか非常に有意義であったと振り返る。
仕事内容は、先輩が企画書を書く上での必要な調べ物をしたり、自分で企画書の一部を資料作成したり、展示会に行って情報収集をするなど、当時のぼくにとってそれほどしんどいものではなかったし、楽しかった。また、業界やWEB・SNSの知識などを着々と身につけていくことができた。
環境面で言っても、先輩社員と自分2人のみのチームだったこともあり、文字通りマンツーマンでかなり丁寧に先輩に指導してもらえたことはとても運がよかった。
目の前にたくさん作業があり、自分のミスがクライアントの損失に直結するような前の部署から打って変わり、
プレッシャーが少なく、広く知識を必要とされる環境はぼくにとって非常に相性がよかったのだと思う。
そして仕事を進めていく上で、先輩やその上のマネージャーにある程度「これくらいはできるのね」と認識されたのか、プランニング(企画書を書く)も任せられるようになった。最初は先輩に大量に赤字を入れてもらいながら、企画書の書き方、企画の立て方、論理性のある組み立て方を勉強していった。
第5章 価値発揮期、そして決断
自分の強みと、価値を発揮できる環境
新チームとして働き始めて8か月が経つ頃、ぼくたちのチームが増員の上、正式に部署として新設されることになった。
ぼくはプランナーとして独り立ちし、大体週に1本ペース(年間50本程度)で企画書を書くようになっていた。
それでもまだぼくは先輩方との差を痛感することも多かったのだが、周囲に対して優位性を発揮する場面が少しずつだが出てきた。
そしてそれがなぜか自分自身で考えていくことで、自分の強みと、価値を発揮できる環境をだんだんと自覚していくことができた。
例えばであるが、こんな感じ。
【優位性を感じられる場面】
- 同じ部署の上司や先輩よりWEB・SNSに詳しくなった(元から詳しかったわけではなく、また意識的に勉強していたわけではなく、自然と勉強していた)
- プロモーション実施するために必要なWEBツールやパートナーに詳しくなり、さらに新たな開拓もした
- 世の中のプロモーションから参考にできそうなものをキャッチアップして部内に共有していた
- 身に着けた知識を企画に生かすことができた
【上記から考えられる自分の強み】
- ざっくりとした解像度で大量に知識を記憶できる
⇒たしかに、受験生の頃は知識系の科目はかなり得意だった。 - 勉強することが苦にならず、自然と勉強できる
⇒どうしたらこのプロモーションが可能になるのか調べる過程で自然とWEBの知識が身に付いた感じ
【価値を発揮できる環境】
- 広い知識を求められる環境
⇒知識をそれほど必要とせず、いかに早く正確にということを求めらる環境は優位性を発揮することが難しい - 長く勤めることができる会社
⇒知識や経験を自分の武器にしたいので、長く勤め社内での徐々に優位性が上がっていくという環境がベスト
反対に、弱みや絶対に行ってはいけない環境というのもわかってきた。
新卒のときから自己分析に取り組んではきたが、ここでまた一段、解像度が上がったと実感した。
これがぼくが冒頭で書いた「自分の価値を発揮できる条件がわかること=覚醒」である。
しばらくすると、営業サポートチーム時代から一緒にやってきた育休明けの先輩が、二度目の産休・育休に入ることになった。
その結果、ぼくは部署の中に2チームあるうちの片方のチームのリーダー的立ち位置になり、部署内・他部署から頼られることも多くなっていった。
決断、二度目の転職へ
この頃、ぼくは30歳の誕生日を3か月後に控えていた。
社内ニート期間の転職活動を断念したとき、「30歳の誕生日までに問いの答えをつかみ転職する」という目標を立てていた。
(30歳というのは、「転職市場においてひとつの線引きになる20代のうちに転職しよう」というただの自分で決めた目安である。)
逆算の上、転職活動を始めた。
このときの転職活動について、この記事では詳しく書かないが、転職活動の最大の目的は「長く勤めるイメージが沸くところに行く」だった。
これは先に書いた「自分が価値を発揮できる環境」を追い求めた結果である。
結果的に、現職よりも会社の規模が大きく、年収も上がり、より自分が長く勤めるイメージが沸く会社から内定をもらうことができた。
マネージャーに退職の旨を伝えたところ、ありがたいことに引き留めにあった。
人数が少ないチームの実務面のリーダーがいなくなるのだから引き留めは当然かとは思うが、
部署をクビになって、社内ニートになり、逃げるように辞めていくのではなく、
引き留められて少しは惜しまれるように辞めることができるのはとてもよかったと思う。
まとめ
「覚醒」とは「自分の価値を発揮できる条件がわかること」
器用な人は、そもそも対応力があって「価値を発揮できる条件」がそれほど厳しくないのかもしれない。(新卒の就活で自己分析をしてわかる程度の解像度で仕事を選べばそれなりにやっていける。)
しかし、ぼくのように不器用な人は「価値を発揮できる条件」が厳しく、なかなか自覚することが難しい。そんな人は、トライ&エラーを繰り返すしかない。
今いる環境で、成果を出すために努力して、うまくいかないなら、小さくてもいいからできることを見つけて、愚直に取り組んでいく。そうすると「これは苦手じゃないかもしれない」くらいのことがわかってくる。それを手掛かりに他にできることを探して、、を繰り返していく。
結構大変だけどこれしかないのかなと思う。
3つの幸運
この2年半は結構大変な思いもしたけど、3つの幸運があったと振り返る。
1つ目の幸運は、最初に配属された部署で、WEB・SNSの知識・経験・感覚を得られたこと。クビにはなったけど結果的にそれが次の部署で活躍できる大きな要素になったし、転職の際にも大いにプラスに働いた。
2つ目の幸運は、部署をクビになったあと提示された移動先の選択肢から、「A:育休から復帰するエース社員(先輩)のお手伝い」を選べたことである。その結果、ぼくは覚醒(自分の価値を発揮できる条件がわかる)することができた。
3つ目の幸運は、20代のうちに異業界への転職を経験できたことである。要らぬプライドがついてきてしまう30代になってから、同じ経験は無理だっただろう。20代の内に経験できてよかった。
新しい会社に転職しても、またつまずく可能性も大いにある。
だけど、以前つまずいたときより自分自身の理解度が増していることは確かだ。
だから、頑張って乗り越えられる気はしている。
「百貨店から広告代理店に転職したら地獄だったけど自分を見つけられた話」完
百貨店から広告代理店に転職したら地獄だったけど自分を見つけられた話【地獄編】
3社目に転職~ブログを更新したくなった理由~
気づけば2023年もあとわずかとなった。
現在、2023年12月30日19時23分。
かつてこのブログを書き始めた25歳は、つい数週間前に30歳になった。
ブログを書き始めたころとは、勤めている会社も、やっている職種も、住む場所も、付き合っている人も、交友関係も大きく変わっていることに気づく。
2年半ほど前、現在勤めている会社に転職するまではブログを定期的に更新する習慣があった。しかし、忙しかったり、必要性をあまり感じなくなったのか、いつのまにかそんな習慣はなくなってしまっていた。
そんな中どうしてブログを書きたくなったというと、来年1月に今の会社を退社し、2月から新しい会社に転職するからである。(3社目)
(先に言うと、100%前向きな転職である。年収も待遇も良くなる。)
2023年だけでなく、今勤めている会社(2社目)に入社した2021年8月から今までのことを振り返ろうと思う。
百貨店から広告代理店に転職したら地獄だったけど、自分を見つけられた話【地獄編】
第1章 未経験でSP会社のWEB・SNS部門に入社!
ぼくが新卒で入社した百貨店を4年4か月で退社し、転職したのは、広告業界の中でも企業のセールスプロモーションを請け負う、いわゆるSP会社。企業の販売促進を行う、社員数100人以下の小規模な会社に、ほぼ未経験で半ば第二新卒のような扱いで入社した。
※広告業界は一般的に知名度がある総合代理店(電通・博報堂・ADKなど)のほかに、
- テレビ・新聞・交通広告・屋外広告など媒体を持っている媒体系代理店
- WEB・SNS広告をメインで取り扱うWEB広告代理店
- PRを専門に行うPR会社
- 広告の制作をメインで行うクリエイティブエージェンシー
- 販売促進を支援するSP会社
など有象無象に会社がたくさんあります。
最初に配属された部署は、「マーケティング」という名のついた部署。
しかし一般的な広告代理店のマーケティング部門や、事業会社のマーケティング部とは違い、「WEB・SNSの何でも屋」といった部署だった。実際に自分が担当した業務とその割合は下記の通り。
百貨店で売場での接客と、主に紙媒体を使った宣伝業務しかやったことのないぼくからすると、WEB・SNSの幅広い分野の業務を行うことができるということで、最初はワクワクしていた。しかし、これが悪夢の始まりとなる。
第2章 部署をクビになる
部署を「クビになった」と言われも、ぼくが体験した「クビになった」を正確にイメージできる人は数少ないのではなかろうか。おそらく「職務適性がないと判断されて、それとなく異動の内示が出る」くらいのイメージをされる人が多いだろう。
ぼくは文字通り「クビになった」のだ。
入社後、上記の業務に取り組んでいたのだが、
ぼくの性質とその業務の相性がとにかく悪かった。
このブログでは何度も書いてきたことだが、ぼくは人より言語の認識・生成に時間がかかってしまい、従って物事をテキパキと効率的にかつ正確に進めていくことがとても苦手だ。
しかし、与えられた業務は正確に・ミスなく・迅速に進めていくことが求められるものだった。(SNS関連の出稿・投稿代行なんて決してミスがあってはならない総本山みたいなもの。)
加えて、すべてWEB・SNS領域とはいえ分野の違う4種類の業務を同時並行で進めていかないといけない環境は、ほぼ未経験で入社し、それまでのキャリアのほとんどを店頭で過ごした当時のぼくを絶望的な状況に陥らせてしまった。
結果どうなったかというと、すべての業務において時間がかかりすぎてしまい、そのパフォーマンスがマネージャーやその上長から問題視されるようになった。
すると、ある時(入社して半年になる頃)、マネージャーからある宣告をされる。
内容は次のようなものだった。
- これから3か月間、お前を鍛える。
- お前の仕事が効率的になるように、毎日マンツーマンで徹底的に指導する。
- 今まで以上に厳しく接する。時間の都合上、ほかの社員がいる中でも𠮟責することもある。
- 毎朝8時に出勤(定時は9時半)して、マネージャーとスケジュールをすり合わせる。
- 朝一緒に決めたスケジュール・タスクがその日中に絶対に終わらせる。終わるまでに帰ってはいけない。
- これをやるかやらないかは選んでいい。また、途中できついと感じたらギブアップしてもいい。しかし、やらない、もしくはギブアップしたらお前には今後簡単な仕事しか任せられない。
といった、令和を生きる私たちからするとなかなかセンセーショナルなものであったが、当時のぼくは、これを受けるという決断をした。
理由は、純粋に自分を変えたかったからだ。苦手を克服してテキパキと仕事が進められる普通の人になりたかった。
※「普通の人」という言葉は、今思うと当時の自分の、世界の認識の狭さからきているものだと思う。世界にどんな性質の仕事があるのかも今より認識が浅かったし、自分の適性もこのときはわかっていなかった。
ぼくはこれが「自分のやりたいことを仕事にする人生最後の戦い」だと思って、相当な覚悟を持って臨んだつもりだった。ここで自分の苦手を克服できなかったら、自分がやりたい、いわゆるホワイトカラーの仕事は無理だろう、自分一人つつましく生きていける仕事を見つけていこうと思っていた。
こうしてぼくにとって試練の日々が始まった。
毎朝8時前に出勤し、マネージャーとスケジュールを合わせ仕事を進めていく。しかし、設定されるタスク量がそもそも当時の自分のキャパシティを遥かに超えているため、毎日22時頃まで残業し家に帰る。そして、こっそり家に持ち帰った仕事を終わらせ26時ごろ就寝、6時半に起床し出勤、朝のスケジュールを合わせる時間には、マネージャーにはなぜ定時までに終わらなかったのを詰められ、、、
といった日々を続けていったわけだが、始めて1か月ごろぼくはギブアップした。
体力面に関しては4時間睡眠が続いただけで、そんなにきつくなかったのだが、先に精神面が折れてしまった。いくら頑張っても自分の能力が改善する気がしなかった。
自分に憑いているこの呪い(性質)はどうあがいても取れることはない無能感に、ぼくの熱意が負けてしまった。
ギブアップの旨をマネージャーに伝えた。
マネージャーは淡々と、「そうか」と言い、「これからお前をどうするのか決めるのかちょっと待ってて」と続けた。
かくしてぼくは、入社から7か月で部署をクビになった。
「百貨店から広告代理店に転職したら地獄だったけど自分を見つけられた話【覚醒編】」に続く↓
これから20代を振り返ろう
新学期が始まった
今日は2023年4月1日。
新学期が始まるという日である。
筆者は別に仕事で部署が変わるとかあるわけではなけれど、自分の部署に新入社員が入ってくるというのが唯一、新学期を感じる現象かと思う。
部署の中で一番年齢も低く下っ端だという理由で、自分がなんとその新入社員の教育担当に任命された。
筆者は29歳にもなって実は、教育担当的な担当に、社会人になってなったことがない。
いつの時代においても部署内で最年少、もっとも経験がない、というポジションがほとんどであったからだ。
年度末はその新入社員を迎える上での準備やなんやらで大変だった。
また、教育担当という職務を行っていくうえで、よくわからないことがたくさん出てきた。
例えば、
・自分が新入社員に対して、どういう態度で接するべきか
・どういった教育方針?にするか
・(いわゆる)1on1の頻度・フォーマットはどうするか
などである。
正直、他人を育てるとか、マネジメントとか興味はほぼないのだけれども、この職務を通して体験したことが自分の成長や経験につながると予感しているので、前向きに取り組んでみようと思う。
20代を振り返ろう
最近サウナで整っているときにふと考えたのが、
「30になる年に、一度20代を総括しておこう」
ということである。筆者は以前にも書いた通り、
人生こそが誰でも語れる最大の物語である
という考えを信じている。
だから何者でもない何者が20代を生きた軌跡を自分のために書いてみようと思う。
また、タイミングとしてもベストだと感じている。というのも、人生の中でもいろいろなフェーズがあって、今もちょうどフェーズの境目であると感じているからだ。
30歳になるタイミングで一度、ここまで自分が何を想って、何をしてきて、どこにいるのか、考えをまとめようと思う。
記憶を言葉にするのはなかなか険しいだろうけど、丁寧にまとめていこうと考えている。
引っ越しをした
先週引っ越しをした。
引っ越しといっても同じ東京都内の別区に引っ越ししただけで、職場も変わっていない。(大きな変化と言えば、同棲し始めたということだろうか。)
通勤時間は1.5倍くらいになったが、前までが職場まで近すぎた(通勤時間15分くらい)ので、一般的に見たら引っ越し後も通勤時間は断然短い部類に入ると思う。
東京に住むのは社会人1年目に引っ越しをしてから、5年で3区目になるが、
まだまだ知らないところがあって飽きない。
まずは生活環境を整えるため、今日は片付けをしようと思う。
そして、仕事や勉強のルーティンを再開して生活を安定させて、ブログも書いていきたい。(同棲の物件選びについて、いろいろと学ぶことがあったので、それを記事にするのもいいかも。)
紙の手帳の役割が行方不明
最近、紙の手帳の役割が行方不明になっている。
というのも、一昨年に転職してから仕事のスケジュール管理をWEB上で行うようになったからである。
百貨店の宣伝部にいたころは、予定をWEB上で共有するという文化がなく、スケジュール管理はすべて各自が手帳や私用携帯のアプリで行ってた。
Outlookのスケジュール機能を使うように一部の上層部は求めていたけど、まったくと言っていいほど浸透していなかった。
さすがに非効率だろ、、と今となっては思う。(ちなみにぼくが宣伝部1年目の途中からTeamsが導入されたが、ぼくと新しい物好きな部長以外使用しておらず、それまでと同じく社内のやり取りもOutlookのメールを使用していた。もうわけがわからない。)
また、勤怠がシフト制であったこともあり(土日平日関係なく、1か月分のシフトを前月のうちに組む)、仕事の予定もプライベートの予定も手帳で管理していた。
一方、今の職場はスケジュール管理はサイボウズで共有、(社内のやりとりはチャットワークを使用)という感じで、スケジュールはWEB上で管理している。プライベートの予定は彼女と共有できるよう、アプリを使用している。だから紙の手帳の出番がない。
ただ、中学3年生から毎年手帳を買っているという習慣があり、毎年手帳は買っている。なにに使っているかというと、日々の日記・プライベートで目標を立てるときのメモ・休みの日のTODOの整理などである。
最近の手帳には、たくさん使っていたころのにぎやかさがなく、寂しいところだが、「プライベートのメモ帳」という位置づけがいいのかもしれない。
人生観、価値観。
人生観、価値観はひとそれぞれだなと最近よく思う。
そりゃ30年近くも生きてくれば、生まれたころはスタートがほぼ同じだったとしても
コース取りによって無数に枝分かれしてくるわけだし、思想(人生観、価値観)は大きく広がっていくよなぁと思う。
ぼくは
「自分は生まれて死んでの輪廻の中にいるのだから、今世は別に貴重でもなんでもない→だからこそ、自分の好きなように生きてOK!失敗も成功もない」
というような人生観だが、これは人によってはまったく理解されないこともある。
「絶対に今世で自分の本当に好きなことをやる!絶対に間違いたくない!!」という人生観もとてもいいなぁと思うし、むしろそっちの方が人間らしいなと思う。
自分の頭を整理して、昔のように一記事まぁまぁなボリュームでブログを書きたいなと思った。