今、顔面に壁の感触がする。
はっきりと伝わっている。
自分で、「叶わなかったら退職します。」と言って異動を希望し、退路を自ら断って覚悟をした。
しかし、思うようにできず、精神が蝕まれ、
また2年前と同じように4文字の言葉が口癖になりつつあるのを必死に防いでいる。
でもこれは今に始まったことではないと思い出した。
僕は、文字を読むことが苦手だ。
同時に、言語を聞き取ることも苦手である。突然話しかけられると、1回で理解することができない。
おそらく脳の処理速度が一般の人と比べてべらぼうに遅い。
中学のころまでは定期テストは常にクラスで1位で、学年でも1桁順位しかほぼ取ったことがなかったから、なかなかそれに気づくことができなかった。
はっきりと自覚したのは、高校に入り、勉強で周りについていけなくなった頃である。
テストが時間内に終えることができたのは、世界史・日本史などの社会系の科目だけ。ほかの科目は全然終わらず、そのことも周りに恥ずかしくて言えずにいたのを覚えている。
極め付けは大学受験のとき。
センター試験形式の英語の問題が、半分も終わらない。
国語も終わらせるのは難しかった。
現役のときは国立・私立含めて全滅し、選択選肢なく浪人することになった。
中学のとき、ぼくが勉強を教えていた同級生達が、ぼくが箸にも棒にも掛からなかった有名大学に入学していった。
子どもながらにプライドがあった。
「自分は本当はできるはずだ。もう少しやれば結果が自然と出るはずだ。」
と信じていたが、そんなものは幻想だったのだと認めさせられた。
自己認識を改めることによって前に進む。
そこで、ぼくはまず、自分に対する自分の認識を徹底的に改めることから始めた。
自分は健常者*1ではない。ふつうの人がふつうにできることができない人間なのだ。
才能なんてない。幼いころ、勉強ができたのは早熟だったからなのだ、と。
そして「文字を読む練習」から取り組んだ。
読書のように、本をただ読むのではなく、自分の目線を指で追跡して、一回で文字が読み取れるように練習した。
また、健常者であるふつうの予備校の友達が、ふつうに予備校の授業を受け、参考書を使って勉強しているなか、
ぼくは、「自分は健常者ではないのだから、ふつうに勉強してはいけない」という認識のもと、
ネットや本で勉強法、とりわけ英語の勉強法について調べまくってから、勉強に取り組むということをしていた。
その結果、「パラグラフリーディング」を参考にした「本文をほとんど読まないで解答する」という英語が得意な人からするとドン引きな方法を修得して、
志望大学に合格することができた。
「ディスレクシア」について知り、おそらく自分はこれなんだと気づいたのは、大学に入学してからしばらくのことだった
忘れかけていた自分の原点を思い出す。
自分は「健常者」ではなかった。
そして、そう認識することで、前に進めた過去があった。
弱者には弱者の戦い方がある。
当時、「プライド」を捨てた一方で、捨てなかったものがある。
「意地」だ。
ぼくはまだ、「意地」を捨てることができない。
*1:※「健常者」という表現には賛否両論ありますが、当時のぼくの認識をそのまま表現するために使わせていただきます。