『花束みたいな恋をした』は生々しすぎて泣けない。
今回は、2021年1月に公開された映画『花束みたいな恋をした』を久しぶりに観て(3回目)思ったことを書いていく。
※資格試験を終え、酒を飲みながら書いた論理性も新奇性もない文章なので、心と時間の余裕がある方だけ読み進めてください。
この間、友人と遊ぶ日を決めた。その日がなんか気になって、
何の日だっけと考えていたら、思い出した。
山根麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)が付き合い始めたのは2015年。まだみんな有線イヤホンを使っていて、きのこ帝国が人気になっていたあの頃、ぼくもその後3年間続くことになる、彼女ができて...
というように、『花束みたいな恋をした』は、観る人にその物語を、自分の物語に見せる仕掛けがいくつもされていて、すごい。
とにかく、権利の問題でふつうは映画の中で出せないような固有名詞(楽曲、書籍、映画、TV番組など、名前だけではなく実物も)がふんだんに使われていて、観ている方にとっても、「あー、そんなときだったな」と同じ世界に没入させるいい仕掛けになっていた。
また、物語の内容も、そこらへんに転がっていそう(に思える)なものになっている。
ざっくりこの話の内容を書くと、
・夢を持っていた若者が社会に押しつぶされて、現実に向き合わざるを得なくなり、
その対応の仕方の違いによって2人がすれ違ってしまう話。
麦(菅田将暉):夢を捨てて現実に向き合う。
絹(有村架純):夢を捨てずに希望を持ち続ける。
・「恋愛」という理想が、「社会」という現実に侵食されていく話。
・「学生のときの恋愛と、社会人の恋愛って違うよね~。」
→「学生のときみたいな恋愛なんてもうできないよね~。」
こんな感じを見て、わかる通り、
世の中にありふれてありふれて、こすられにこすられすぎたテーマである。
あまり明るいテーマではないので、映画にするときは、
無理やりハッピーエンドにしたり、終わりを描かなかったりするものが多いんだけれど、この映画は終わるところまでしっかり細部まで描いていて、生々しい。
だからこそ泣けない。
『ラ・ラ・ランド』はあんなに泣けるぼくが、泣けないのだ。
でも、恋愛に対する考え方っていうのはこの2作品は共通している部分があると思っていて(というより、ぼくが同じ見方をしているのかもしれない。)、
それは、「良いとか悪いとか、めでたいとか悲しいとかじゃなくて、思い出は思い出として心の奥の方に置いておこう。」というスタンスである。
「花束みたいな恋をした」のタイトルの意味の考察に
「『花束を捨てる場所を探す男と、花束を飾る場所を探す女』、という皮肉」というものをネットで見つけたけれど、
「花束のようにきれいで、しかしすぐ枯れてしまうように儚い贈り物をもらった」くらいにぼくは考えている。