アラサー元百貨店マンの思考整備工場

都内大学→新卒百貨店→広告代理店。人生2周目を迎えた名もない人間の物語を書きます。

『えんとつ町のプペル』は総合芸術ならぬ、新時代の総合エンターテインメントだ。

 えんとつ町のプペルを観てきました!

そこで僕が思ったのは、

「『えんとつ町のプペル』は総合芸術ならぬ、新時代の総合エンターテインメントだ。」

ということです。

 

まずは、映画自体の感想です。

 

映画『えんとつ町のプペル』感想

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①勇気がもらえるストーリー

ストーリーはいろんなところで書かれていると思うので、書きません。

絵本を読んだことがあり、おまかな内容を知っている僕が見ても、楽しめるストーリーでした。

多くの人にとっても、キンコン西野さんほど大きくなくても、線路から外れた挑戦をするときがあると思います。

そんなときを思い出して、泣いてしまうお話でした。

 

②映像が細かくてきれいでかわいい。

STUDIO4℃が制作ということで、新海誠作品とは違う綺麗さがありました。

特にこのシーンは迫力がすごかった。

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©西野亮廣/「映画えんとつ町のプペル」製作委員会

 

えんとつ町は現代社会の縮図

 

夢を持てば笑われて、声を上げればたたかれる。

そんなえんとつ町はまさに現代社会の縮図でした。

 

というのも、「夢を語る者」と「それを笑い叩く者」の2者だけではなくて、

劇中ではいろんな段階の人間が描かれていました。そこがなんともリアルだなと。

 

・ホシを語る者[ブルーノ]

・ホシを信じる(けど声をあげられない)者[ルビッチ・ローラ]

・ホシの存在を知っているが、あえて声を上げない、信じている者を抹殺しようとする人[トシアキ・アントニオ]

・違和感を感じているが半信半疑で動かないの者

・ホシを存在しないと思い込んでいる者

 

「自分はこのタイプだなぁ」とキャラクターに自分を重ねながら観ることができました。

 

ぼくの最も印象に残ったキャラクターはなんと、プペルでもなく、ルビッチでもなく、

ドラえもんジャイアン的存在のアントニオ。

 

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アントニオ

劇中で、ゴミ人間のプペルが、「ルビッチさんはホシを探している」といった瞬間、

アントニオはプペルのことをめちゃくちゃな勢いでボコボコにするんですが、

それが軽く衝撃的でした。

 

なにも危害を与えたり、悪いことをしたりしていないのに、

ただ夢を語っただけで殴られるという、

 キンコン西野さんが経験したのはまさにこれなんだろうなと思いました。

 

 

④「おしまい」の後、自然に拍手が起きた。

これは感想というより、客観的事実なのですが、ほんとに自然に拍手が起きました。

僕が映画館で観た映画の中では、スターウォーズEP9以来、2回目の体験でした。

 

 

『えんとつ町のプペル』のMVPはアントニオ【ネタバレなし感想】

 えんとつ町のプペルを観てきました!

まずは映画自体の感想です。

 

 

映画『えんとつ町のプペル』感想

 画像

 

①つらいときに勇気がもらえるストーリー

ストーリーはいろんなところで書かれていると思うので、書きません。

絵本を読んだことがあり、おまかな内容を知っている僕が見ても、楽しめるストーリーでした。

多くの人にとっても、キンコン西野さんほど大きくなくても、線路から外れた挑戦をするときがあると思います。

そんなときを思い出して、泣いてしまうお話でした。

 

②映像が細かくてきれいでかわいい。

STUDIO4℃が制作ということで、新海誠作品とは違う綺麗さがありました。

特にこのシーンは迫力がすごかった。

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©西野亮廣/「映画えんとつ町のプペル」製作委員会

 

えんとつ町は現代社会の縮図

 

夢を持てば笑われて、声を上げればたたかれる。

そんなえんとつ町はまさに現代社会の縮図でした。

 

というのも、「夢を語る者」と「それを笑い叩く者」の2者だけではなくて、

劇中ではいろんな段階の人間が描かれていました。そこがなんともリアルだなと。

 

・ホシを語る者[ブルーノ]

・ホシを信じる(けど声をあげられない)者[ルビッチ・ローラ]

・ホシの存在を知っているが、あえて声を上げない、信じている者を抹殺しようとする人[トシアキ・アントニオ]

・違和感を感じているが半信半疑で動かないの者

・ホシを存在しないと思い込んでいる者

 

「自分はこのタイプだなぁ」とキャラクターに自分を重ねながら観ることができました。

 

ぼくの最も印象に残ったキャラクターはなんと、プペルでもなく、ルビッチでもなく、

ドラえもんジャイアン的存在のアントニオ

 

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アントニオ

劇中で、ゴミ人間のプペルが、「ルビッチさんはホシを探している」といった瞬間、

アントニオはプペルのことをめちゃくちゃな勢いでボコボコにするんですが、

それが軽く衝撃的でした。

 

なにも危害を与えたり、悪いことをしたりしていないのに、

ただ夢を語っただけで殴られるという、

キンコン西野さんが経験したのはまさにこれなんだろうなと思いました。

 

そのアントニオは、なぜそんな理不尽なことをするのか、

この作品としての答えが、劇中の終盤でアントニオの口から語られます。

 

アントニオが最も象徴的に、現代社会の核心を突いているということで、ぼくの中でのMVPです。

 

④「おしまい」の後、自然に拍手が起きた。

これは感想というより、客観的事実なのですが、ほんとに自然に拍手が起きました。

僕が映画館で観た映画の中では、スターウォーズEP9以来、2回目の体験でした。

 

 

同日公開のポケモンを越えられるか、注目しています。

認知が大幅に劣るプペルがポケモンを超えるには、

リピーターと口コミがポイント。

頑張れプペル!!

 

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えんとつ町のプペルを楽しみに、まずはクリスマスまで

気づけば2020年も残り1週間となった。

その1週間は、百貨店の1年間でもっとも忙しい1週間である。

 

溜まった所定休日を年内に消化しないといけないせいで、

クリスマスイブの前日である今日も休みにせざるを得なかった。

 

ザルみたいに荒いぼくの網目が、年末の大量のタスクをカバーができるはずがなく、

予感通り、電話がかかってきた。

 

関係各所に迷惑をかけたことは確定で、

気分が晴れない鬱な休日を過ごした。

明日は朝からいろいろな人にお叱りを受けるだろう。

 

思えば今年は、メンタルの状態が良かった日はあまりなかったかもしれない。

学生時代のころ、あんなに前向きだった自分が、なんでこんなネガティブになったのだろう、、と思うこともあった。

しかし、それは誤解だったと気づいた。

 

ネガティブと前向きは両立する。

 

「ネガティブ」という言葉は、直訳すると「消極的な」となるが、

そのほかにも、

「否定的な」「後ろ向きの」「負の」「下向きの」など、

マイナス系な姿勢の総称として用いられていることが多い。

だから、「ネガティブな人」と言うと、なにもかも後ろ向きに考えている人と捉えられることが多い。

 

しかし、この捉え方はあまりにも乱暴である。

前を向きながら、目標を目指して、「自分はまだまだだ」「自分は大したことはない。」「自分は優秀じゃない」

と言いながら、思いながら、悩みながら、

努力をしている人もいる。

 

この人は、ネガティブでありながら前向きと言える。

 

今年は、なかなかペダルが踏めず、かみ合わず、空回りして、

メンタルがやられて、7連休の休日も全く休めず、やらなければならないことができず、悪循環に陥った。

やるべきは、起こったことに対して反省をして、改善策を講じて、実行して、ということはわかっているのに、

なるべく仕事のことは考えたくないと、避け続けて、だからなにも変わらず、また失敗した。

「自分は本当はこんなんじゃない」と思いながら、そんなことはカッコ悪いから口でも態度でも言えなくて、自分を刺し続けた。

 

でも結局、集中すべきは、自分の影響の輪の中のことである。

 

明日は怒られるだろう。怒られよう。

迷惑をかけただろう。謝ろう。

自分が嫌になるだろう。嫌になろう。

 

すべて甘んじて受け入れよう。

それをすべて受け入れる気力が、今日になってようやくできた気がする。

 

えんとつ町のプペル』を楽しみに頑張る。

 

まずはクリスマスイブ・クリスマスを生き抜く。

そして26日か27日に映画『えんとつ町のプペル』を観に行く。

 

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映画『えんとつ町のプペル


 

youtu.be

 

今年、キングコング西野亮廣さんのオンラインサロン『西野亮廣エンタメ研究所』に入会し、制作過程を見てきたので、映画がすごく楽しみである。

 

これで気力をもらって、、あとは気合で年末まで走る這ってでも進む。

「明日が見えなくても、ゆこう、嵐の海を越えて光の世界へ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ラ・ラ・ランド』をハッピーエンドと思える人と結婚したい。

なぜか毎回ラストに号泣してしまう映画がある。

 

ラ・ラ・ランドである。


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今、非常に、凡俗なことのように聞こえてしまっていることには気づいている。

本記事は、メンタル維持のために、「作品としていい映画」「見ると心が洗われるコンテンツ」を探した結果、ラ・ラ・ランドに辿りつ着き、

なぜ、「みんなが好きな映画」が嫌いな僕が心惹かれるかを分析したものである。

 

心と時間に余裕がある人だけ読み進めてほしい。

gaga.ne.jp

 

 

ラ・ラ・ランド』とは

 

ラ・ラ・ランド』とは、2016年に公開されたアメリカのミュージカル映画である。

映画俳優を目指す、ミア(エマ・ストーン)とピアニストで、将来自分のジャズのお店を開くという夢があるセブ(ライアン・ゴズリング)の恋愛を描いている。

 

かなり有名な映画だから、観たことがある人は多いと思う。

 

このラ・ラ・ランドが公開された年は、やたらとテレビ(CMとか王様のブランチとか)等やネット上で

アカデミー賞最有力候補!大本命!」

 

 と煽られていたのを覚えている人はいるだろうか。

 

結果、作品賞は「ムーンライト」という作品が受賞し、

全世界がずっこける、、、という展開だったのだが、

 

それでも、他の6部門で受賞し、その年世界で最も評価された作品となった。

 

先に、あらすじを説明する。

 

 

あらすじ(ネタバレ)

 (曖昧な記憶に沿って書いたので、多少間違っているところがあると思います。ご了承ください。)

 

映画俳優を目指す、ミア(エマ・ストーン)とピアニストで、将来自分のジャズのお店を開くという夢があるセブ(ライアン・ゴズリング)が出会い、恋に落ちる。

夢に向かって2人とも頑張っているが、なかなかうまくいかない。

その中で、ぶつかり合い、お互いを傷つけてしまう。

 

セブは本当は純粋なジャズをやりたいが、なかなか生計を立てるまでに行かず、意にそぐわないながらも、現代風にアレンジしたおちゃらけジャズバンドに加入する。

 

ミアはオーディションに落ち続け、一人舞台に出演するも客も多くは入らず、また、酷評されてしまう。

 

もう俳優になる夢をあきらめようと、実家に帰ってしまうが、

そんな中、ミアの一人舞台を見た映画プロデューサーからオーディションを受けないかという打診の電話がセブにかかってくる。

 

セブはミアを、必死に説得し、オーディションを受けさせる。

結果、ミアはオーディションに合格し、プロデューサーから長期間、パリでの撮影に同行してくれと告げられる。

セブは、「君の夢だ」とミアを後押しし、二人は別れる。

 

5年後、大女優になったミアは、結婚し子どもも設けたが、その相手はセブではなかった。

旦那と出かけた先、ジャズが流れるお店にふらっと立ち寄った。

その店の名前は「セブズ」。

舞台の上のセブと、ミアは目が合った。

そこから、セブが弾きだした思い出の曲とともに「もし二人が、あらゆることがうまくいき、付き合い続けたら、、こうなっていただろうか。」といった二人の姿が浮かび上がってくる。

ほんの一瞬だけ二人は笑顔をかわし、ミアは店を去っていった。

 

 

以上がラ・ラ・ランドのあらすじである。

 

こんな作品は好きになるはずがない

いつものパターンで行けば、こういう映画は好きになるはずがない。

理由は2つある。 

 

①ミュージカル免疫がない。

日本は、ミュージカル文化が浸透しているとは言えない国であるが、

ぼくも例に漏れず、ミュージカルにはあまり慣れていない。

 

「えっ、ここで踊りだすの??道路のど真ん中だけど大丈夫??」

「セリフの途中から歌いだしちゃって、なんか見ていて恥ずかしい」

みたいな感じになってしまう。

 

 

② 「みんなが見てる」「アカデミー賞受賞!」みたいな映画を好きになりにくい。

 ぼくは、意地でもiPhoneにしなかったり、『君の名は。』を言うほどいい作品とは思えなかったり、

あまのじゃく的な性格中二病とも言う)である。

ラ・ラ・ランド』もそういう属性の映画であろう。

 

しかし、ぼくはラ・ラ・ランド』を見て、泣いてしまうのだ。

なぜか、分析してみた。

 

 

ラ・ラ・ランドに感動する要因は何か

 

①見ていて恥ずかしくないミュージカル

なんだろう、歌いだしたり、踊りだすシーンもラ・ラ・ランドは見ていて恥ずかしくならない。

セリフの途中でいきなり歌いだすシーンがないからだろうか。

と思ったら、やはりそういう分析をしている記事を見つけた。

 

theriver.jp

 

ぼくが感じたことは、他の人も感じていたようである。

ミュージカル的なわざとらしさを意図的になくしていたのだろう。

なんというか、ミュージカルシーンがより自然に始まるというか、そんな感じがした。

 

②引き込まれる音楽

 

たいして洋楽もミュージカル音楽も知らない自分が、なんかこういうことを言っている

のは非常に恥ずかしいのだが、

ミュージカルに使われる音楽としては、

「伝統的なにおいも感じつつ、新しくもありながら、古臭くない」音楽だなと感じた。

 

 

theriver.jp

 

③夢を追う人の現実を描くストーリー

 

本作のラストについて、世間では
「ハッピーエンドにしてほしかった。二人が結ばれてほしかった。」と言っている人が

多くいるらしい。

しかし、僕はほんのわずかでも、「ハッピーエンドではない」と思いつきもしなかった。

 

2人の夢は、「お互いに結婚して、一緒になること」ではなかった。

ミアには、女優になるという夢があり、 セブには自分のジャズの店を開くという夢があった。(そして、それが見事に叶った。=ハッピーエンドである。)

そういった中で二人は出会い、互いに認め合い、応援し合い、愛し合った。

タイミングが合わず、二人は別れることになったけれど、人生とか、恋愛とはそういうもの、なのだと僕は思っている。

、、だからこそ、このラストに感動するのではないかと考えている。

つまり、作品の人生とか恋愛に対するスタンスに共感したのではないかと。

 

言語化するのがとても難しいが、

運命の人が最初からいるわけではなく、自分の人生を生きていく(=夢を追う)なかで、たまたま会った人と付き合い、タイミングが合った人と結婚する。

その中で、出会い別れた人に対しても、いつか再会して(別にSNS上で見かけるだけでもいい)、「夢をかなえられて良かったね」と思い合いたい、

そういった願望が自分の中で実はあり、

それは恋愛における最大のハッピーエンドである、と考えている。

そういうことで、ラ・ラ・ランドのラストに感動したのではないか。

 

恥ずかしながらそんな風に分析した。

 

 

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クリエイティブまでいきつくには仕事基礎力が必要か【近況出力】

最近の近況をアウトプットして、自分を客観視します。

 

 

クリエイティブまでいきつくには仕事基礎力が必要か

 

昨日・今日とWi-Fiやスマート家電がつながりにくい。(11/25)

AWSに障害が出たらしい。

 

japan.cnet.com

 

 

1か月ほど前にスマホタブレットPCを買い替えた。

(Pixel4aとSurface Go2)

 

身の回りのデジタル環境を整えたものの、

そのほかの環境がなかなか整わず、読書やブログといった趣味ができないでいる。

 

仕事では、より企画力や独自性を求められることが増えたのだが、

最低限度のレベル(納期を守る、前年を踏襲するなど)の仕事を納品することさえ精一杯で(ときに炎上させることとも)、なかなかそこまでたどりつけないでいる。

 

よくぼくが見ているYoutuber、サラタメさんも同じようなことを言っていた。

 

 

「『面白いことをやる』と豪語していたのに、着地を大前提とした進め方になってしまう」

「つまんないものを量産し続けて自己嫌悪に陥る。」

 

 

休みの日にリカバリーしようとしても、企画を考えるような気力がなく、

結局だらだらして1日が終わる。

 

早く結果を出さないと、という焦りが自分を追い込んでしまう。

そんな日が続いていたが、気づいた。

 

「心に余裕がない状態ではクリエイティブに行くことは無理!!」

「だから諦めよう!そこに行きつける基礎力と精神力が戻ってくるまでは焦らない!」

 

 

なぜ気づいたかというと、

実際に自分が少しずつだが、実感したからである。

 

9・10月はとても忙しかった。仕事が休みの日まで侵食し、精神的にも追い詰められた。

こなさなければいけない仕事が大量にあり、それをなるべく少ない残業時間で抑えるのが必死だった。

そんな中、企画書を作らなければならないのだが、

そういうクリエイティビティーが必要なことを考えることがてんでできなかった。

 

和菓子担当のころは、休みの日に他の百貨店の催事を見に行ったりして、仕事のことを考えることが好きだったし、

商業施設に行って、掲示されているPOPや看板、イベント情報などを見て、

「これはどんなマーケティングをしているのか」と考えることが癖だった。

 

しかし、忙しかった9・10月は、メンタルを保つために、休みの日はとにかく仕事のことを避けて、ショッピングセンターの中の看板が目に入らないように気を付けていたほどだった。

 

ところが、そんな10月を乗り越えて、自分に余裕がわずかにだが、でき始めたとき、

自分の中で、

「自分のやりたいことができなくて、自分の力がこんなもんだと思われて悔しい」

「面白いことをしたい。」

「自分の全力をかけて、本気で頑張りたい。」

という沸々とした感情が沸き上がっていくことを感じた。

 

 

仕事基礎力をベーススキルと捉えるか否か

 

ここまで、仕事において必要な力をなんとなくだが、次の2つに分けて書いた。

①「仕事を進める力(コミュニケーション能力、スケジュール・タスク管理力などの基礎的な能力)」

②「企画力(情報収集力・論理的思考力・プレゼン力などのクリエイティブにつながる能力)」

 

「②に行くためには①を身に付けなければいけない。①→②」

というのがここまでの論調だが、一方で、

 

 社会人は全員①を絶対に身に付けなければならない、 

ということもないとないだろう。

 

そんな陳腐な力、必要ない職業やポジションも必ずある。 

そういう場合は、直接②を身に着ける、もしくは②を割合多めにして①と同時に身に着ける、こともありだ。

 

また、企業や部署によって、①の内容・必要とされるレベルはそれぞれ異なることが想像できる。

 

だから、なかなか今の環境が自分に合わず、自分の力が発揮しにくいなと思ったら、
転職や異動によって環境を変えるのもありだ。

 

とりあえずぼくは、最低でもあと1年、

①→②ルートで頑張ってみようと思う。

 

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答えはいつも自分の中に【大学受験・ディスレクシア・発達障害】

今、顔面に壁の感触がする。

 

はっきりと伝わっている。

 

自分で、「叶わなかったら退職します。」と言って異動を希望し、退路を自ら断って覚悟をした。

 

しかし、思うようにできず、精神が蝕まれ、

また2年前と同じように4文字の言葉が口癖になりつつあるのを必死に防いでいる。

 

でもこれは今に始まったことではないと思い出した。

 

 

 

僕は、文字を読むことが苦手だ。

 

同時に、言語を聞き取ることも苦手である。突然話しかけられると、1回で理解することができない。

おそらく脳の処理速度が一般の人と比べてべらぼうに遅い。

中学のころまでは定期テストは常にクラスで1位で、学年でも1桁順位しかほぼ取ったことがなかったから、なかなかそれに気づくことができなかった。

 

はっきりと自覚したのは、高校に入り、勉強で周りについていけなくなった頃である。

テストが時間内に終えることができたのは、世界史・日本史などの社会系の科目だけ。ほかの科目は全然終わらず、そのことも周りに恥ずかしくて言えずにいたのを覚えている。

 

極め付けは大学受験のとき。

センター試験形式の英語の問題が、半分も終わらない。

国語も終わらせるのは難しかった。

現役のときは国立・私立含めて全滅し、選択選肢なく浪人することになった。

 

中学のとき、ぼくが勉強を教えていた同級生達が、ぼくが箸にも棒にも掛からなかった有名大学に入学していった。

 

子どもながらにプライドがあった。

 

「自分は本当はできるはずだ。もう少しやれば結果が自然と出るはずだ。」

と信じていたが、そんなものは幻想だったのだと認めさせられた。

 

自己認識を改めることによって前に進む。 

そこで、ぼくはまず、自分に対する自分の認識を徹底的に改めることから始めた。

 

自分は健常者*1ではない。ふつうの人がふつうにできることができない人間なのだ。

才能なんてない。幼いころ、勉強ができたのは早熟だったからなのだ、と。

 

 

そして「文字を読む練習」から取り組んだ。

読書のように、本をただ読むのではなく、自分の目線を指で追跡して、一回で文字が読み取れるように練習した。

 

また、健常者であるふつうの予備校の友達が、ふつうに予備校の授業を受け、参考書を使って勉強しているなか、

ぼくは、「自分は健常者ではないのだから、ふつうに勉強してはいけない」という認識のもと、

ネットや本で勉強法、とりわけ英語の勉強法について調べまくってから、勉強に取り組むということをしていた。

 

その結果、「パラグラフリーディング」を参考にした「本文をほとんど読まないで解答する」という英語が得意な人からするとドン引きな方法を修得して、

志望大学に合格することができた。 

 

 

 ディスレクシアについて知り、おそらく自分はこれなんだと気づいたのは、大学に入学してからしばらくのことだった

www.npo-edge.jp

 

忘れかけていた自分の原点を思い出す。

 

自分は「健常者」ではなかった。

そして、そう認識することで、前に進めた過去があった。

弱者には弱者の戦い方がある。

 

当時、「プライド」を捨てた一方で、捨てなかったものがある。

「意地」だ。

 
「意地」を検索してみると、
「自分の思いを無理をしてでも押し通そうとする、強い気構え」とある。

 

ぼくはまだ、「意地」を捨てることができない。



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*1:※「健常者」という表現には賛否両論ありますが、当時のぼくの認識をそのまま表現するために使わせていただきます。

ストリーミングかレコード、どっちつかずが一番まずい

アメリカで、レコードの売上がCDを33年ぶりに上回った。(2020年上半期)

 

www.afpbb.com

 

 

レコードの売り上げは物理的な媒体全体の62%を占めたが、物理的な媒体全体の売り上げは前年同期比23%減だった。RIAAはこれについて、新型コロナウイルスパンデミック(世界的な大流行)によって、販売店が閉鎖されたためとしている。 

 

 

だが、レコード市場はいまでもニッチなままだ。RIAAによると、今年上半期の収入の85%がストリーミングによるもので、前年同期比12%増の48億ドル(約5094億円)に上った。定額制(サブスクリプション)サービスの利用者増加が一因だという。

 

・音楽をストリーミングで提供するサブスクリプションサービスの利用者が大きく増加し、

物理的な媒体(CD・レコードなど)の売上が減少している。

・現在アメリカでは、コアな音楽ファンや若手を中心にアナログレコード人気が再燃。

→結果、レコードがCDの売上を上回った。

 

ちなみに日本では、

まだまだCDの売上が高く、レコードがCDを超える日はまだ先になりそうだが、

CDの売上は年々減少し、レコードの売上は年々伸びいるとのこと。

 

finders.me

 

 ぼくはこのニュースを見たとき、頭の中でパッと思いついた構図がこれだった。

 

レコード:レトロ、不合理的、本質、伝統、物質

 ↑

CD:二者の中間。どっちつかず。

ストリーミング:現在、合理的、現象、革新、デジタル

 

 

より便利、快適、効率的な新しいものに価値がつき、それが普及するとそれまで新しかったものは次第に価値を失っていく。

しかし、度を越して古くなったものには、懐古的、歴史的、文化的な価値を持つことがある。

 

今回の音楽媒体の例でいけば、CDはストリーミングの技術・サービスの登場により、価値を失った。

一方でレコードはCDによって使われなくなってから時間が経ち、懐古的な価値を持つようになった。

(おそらく、CDもあと50年すれば、レトロな価値を持ち始めるはずである。)

 

 

百貨店はCD

 

百貨店はCDと同じではないだろうか。

日本では百貨店という業態が誕生したのは1905年(株式会社三越呉服店)。

その頃は、間違いなく百貨店は革新的なものだったはずだ。

 

しかし、1990年代にバブルが崩壊し、インターネットが発達した現在において、

もう決して「革新的」とは言えない。

かといってレコードのようなレトロ感もない店が大多数だ。

 

ぼくは、以前にも書いた通り、本店レベルの店はレコード側に思いっきり振り、

それ以外の店については、百貨店という業態にこだわらず、SC化してストリーミング側のアプローチをすべきだと考えている。

achten.hatenadiary.com

 

 

本日はここまで。

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